きぼうのいえと社会の窓

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    「今年はもう花火見えないかもしれないな」と、夕暮れに染まる屋上で、施設長の山本雅基さんが呟いた。僕らは何も答えることも出来ず、目の前にそびえる大きな施設を一緒に眺める事しかできなかった。

     台東区、山谷地区にあるホスピス「きぼうのいえ」については、ドキュメンタリー番組を何年か前に見ていたので、どんな人がそこで終末期を過ごし、またスタッフの奮闘ぶりも少しだけ分かったつもりでいた。印象に残っていたのは、屋上できぼうのいえ住民とスタッフがご馳走を囲み、夏の隅田川花火大会を堪能していたシーンである。咲く花を歓喜で迎え入れ、散りゆく花びらを遠い目で見送っていた。賑やかで静かな宴であった。

     きぼうのいえでは、屋上花火鑑賞会が毎年恒例であるらしい。山谷地区は低層階の建物が殆どなので、鑑賞を妨げる建物は存在しなかったようである。しかしここ数年、山谷、南千住近辺はドヤ街からタワーマンションや外国人観光客向けの近代ホテルへと様変わりしつつある。そしてこの春、きぼうのいえからほんの数十メートル先、方向で言えば花火会場方面であるらしいのだが、巨大な福祉施設が完成した。その大きさを空母と例えるなら、きぼうのいえは小型の漁船程だろうか。確かに夏の夜空に咲く大輪はもう見れないかもしれない。同時に組織の差というものをまじまじと見せつけられたようである。

     だが組織の大小と、組織力は比例しないと僕は思う。山本雅基著「山谷でホスピスやってます」、中村智志著「大いなる看取り」を読んで、それは確信となったわけだが、きぼうのいえには強力な、そして協力な組織力があると感じる。互いに握り合った手は、どんな荒波にのまれても決して離れる事のないような力。そしてきぼうのいえの組織力は、スタッフだけでなく、住民もその力に大きく加担しているのが特徴だ。だからこそ関係は対等である。対等であるからこそ個々の力を充分に発揮できるのではないだろうか。

    医療施設、介護施設では責任問題というものがスタッフの発想力、柔軟性を奪っているような気がする。よかれと思って行った事も「あなたそんな事勝手にやって責任とれるの?」と。だがきぼうのいえは考えが全く違う「責任は全部俺が持つ」と山本さんが言っているのだ。スタッフを心から信じているからこその発言である。勤続三年である若い女性の生き生きとしたその姿を見たとき、小さな小さないえだけど、とてつもない力を感じずにはいられなかった。

     だから、花火は見えなくなるかもしれないけど、とても寂しいことかもしれないけど、きぼうのいえで暮らせる幸せは変わらないと思う。あくまでも個人的な見解だが、僕が施設で暮らす事となったら、やっぱりきぼうのいえのような小さなところを選択したい。ささやかな生活の場に、効率だとか、システムだとか、最新の技術だとかは望んでいない。介護技術も完璧でなくていい。支えてくれるスタッフの、体温だとか、額の汗を感じる事ができれば、何よりの幸せだと思う。

     自分の話で申し訳ないが、2009.06.13のブログ「社会の窓」脚本も、見れなくなった花火にまつわる話である。冷やかし半分に読んでいただければと願う。

    (写真 ラオス・ムアンシン 筆者撮影)


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